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今日このnoteに私が、19年前に書いたコラム「Yes, Yes, NOMO! 私とベースボール」をアップロードします。このコラムは、2003年発行の私の初の書籍『ひさみをめぐる冒険―サンフランシスコで暮らす楽しみ "It's an Adventure -  Hisami Lives America" 』に掲載されたものです。週末ひょんなことからYouTubeで『大リーガー 野茂ー NHKスペシャル 1995年放送』というヴィデオを見て、同じ年に米国移住して来て、思いもよらない様々な困難の中でもがき苦しんでいた私が、メジャーリーグにデビューした野茂に、どれだけ勇気づけられたかを綴っています。手元にこの書籍の電子ファイルの原稿がなかったので、ハードカバーの本を見ながら、タイプを打ち直し、不覚にも涙がこぼれました。3年前に亡くなった母は、この書籍を読んで「一言も言わなかったけど、ひさみはこんなに苦労したのね」と涙ながらに私に感想を語ってくれたことも、思い出の1つです。表紙の写真はゴールデンゲイトの裏側の崖に落ちそうになりながら、プロのカメラマンに撮影してもらいました。

野茂との再会

私とメジャーリーグ・ベースボールの最初の出会いは、野茂がデビューした1995年に遡ります。そのユニークな投法と実力で多くの話題を提供し一躍ブームを作った野茂は、その後ロスアンジェルス(LA)ドジャースから移籍した後は低迷を続けていました。以下のEmailは、そんな野茂の復活に興奮して2001年4月4日、日本の友人に宛てたものです。

ノーヒットノーランで飾った野茂の復活

今、ESPNのTVとウェブを見終わり、やはりこれは野茂に刺激され、ここUSで同じように6年間がんばってきた大柴ひさみとしては報告せねばと思い、Emailしています。すでに速報が入っていると思いますが、野茂がボストン・レッドソックスでのデビュー戦をノーヒット・ノーランで飾りました。これは歴史的な出来事で、彼はメジャーリーグ史上リーグ最速(シーズン開始後最も早い時期4月4日、以前の記録を3日早めた)でノーヒット試合を達成しました。さらに2リーグにまたがるノーヒット投手として、ノーラン・ライアン、サイ・ヤング、ジム・バニングという球史に残る名投手に続く史上4番目の席を手に入れました。またボストンのカムデンヤーズ球場に、最初のノーヒット・ノーランゲームをもたらすという数々の記録を、今日達成しました。

私がなぜこんなに喜んでいるかというと、ESPNのアナウンサーが「だからベースボールは面白い。過去3年間苦しんでいた偉大な投手野茂が、移籍したデビュー戦でこんなエキサイティングなピッチングをする。毎日さまざまなドラマが、たくさんの球場でうまれるんだ」という興奮したコメントを聞いたからです。このアナウンサーの声と表情には、外国人プレイヤーを特別視せずひとりのメジャーリーガーとしてきちんと尊敬している態度がにじみ出ており、野茂以上に彼の新鮮な意見がとても嬉しく思えました。

1995年、野茂と私がアメリカに来た年

野茂がメジャーリーグにデビューした1995年、私も38歳でアメリカにやってきました。現在サンフランシスコ(SF)のランドマークとして有名なジャイアンツのホーム球場のパックベルパークの建設以前で、ジャイアンツが、SFから少し南に下った強風で有名なキャンドルスティックパークでプレーしていた頃です。ベースボールファンの夫に連れられて早速メジャーリーグ初観戦。当日は、何とマッシー村上(最初の日本人メジャーリーガー)の記念試合で「SFジャイアンツ対LAドジャーズ」、さらに先発が野茂というまさに絵に描いたようなお膳立てした。私は、試合前の国歌斉唱の時にマウンド上に立つ着物姿のクラシックのソプラノ歌手を見て驚き、彼女が「星条旗よ永遠なれ」を歌い始めてこの着物と米国国歌の不思議な組み合わせに、アメリカに住む自分の姿を見たような奇妙な感覚を覚えました。その後村上さんによる始球式、さらに審判のプレイボールの声の後に登場した野茂の投球を見て、私の奇妙な興奮のボルテージは上がりっぱなしとなりました。

メジャーで成功した野茂に続け

試合は、トルネードの威力そのままにドジャーズが勝ち、通常ドジャーズに異常な敵愾心を燃やす地元ジャイアンツファンも(この関係は昔の巨人・阪神戦みたいな関係です)、野茂の魅力にかなり参っていたのを覚えています。まだアメリカに来たばかりで英語や文化習慣に戸惑っていた私は、試合終了後「野茂みたいに絶対にがんばって、アメリカのビジネスのメジャーリーグで成功するぞ」と心に誓ったものです(ファンレーターをドジャーズ宛てに出して、球団の広報から必ずこの手紙は野茂に渡すという返事が来ました。彼は読んだのかしら??)。野茂はその年新人賞を獲得し、1997年メジャーリーグ史上最速の500三振を達成するなど小さな子供でも「NOMO」の名前を知っているといわれるぐらいに、超有名プレーヤーとなりました。彼の持つ力は、日本人であるモノ珍しさを超えてメジャーリーグの実力のある投手として評価されており、そこが当時の私を大いに勇気付けてくれたものです。

一朝一夕でメジャーリーグでの成功はありえない

今回の復活ともいうべきこのノーヒット試合も6年間山あり谷ありの中、野茂が黙々とここアメリカで投げ続けた結果だと思います。1996年のノーヒット」試合がフロック(運が良かった)とはもちろんいいませんが、今日の試合の重みはそれ以上です。試合後のいつにもまして無表情で淡々とした彼の表情には「あたりまえだよ。しっかりキャンプで準備してきたんだから」といっているような、ホンモノの余裕を感じさせるものがありました。猫の背伸びみたいなトルネード投法も、個性を尊ぶアメリカでは大いに人気を博し、野茂の無駄口をたたかない「Zen Likeな態度(禅のような・神秘的な)」は、今年大いにべースボールファンを楽しませてくれることを予感します。

底知れぬ不安感と暮らしていた当時の私(2002年11月6日)

このEmailを読み終わって、どれだけ米国移住当時の私が外国生活そのもののプレッシャーの中で生活していたのかを実感しました。もし1995年野茂がメジャーに来て活躍しなければ、独立して自分のビジネスをはじめるというチャレンジングな発想も生まれなかったかもしれない、ふっとそんな思いもよぎります。自分と野茂を等身大ではかるのはおこがましいかもしれません。ただ米国移住当時の私は16年間日本でビジネスをやってきた人間としての自負はあったものの、それを本当に異国の地で活かせるのだろうかという底知れぬ不安感に、常にさいなまれていたような気がします。彼のドジャーズ移籍後の不振も、自ら就職やビジネスがままならなかった頃と重なり、彼がそれをプロとしてひとつひとつ克服してきた姿に、本当に勇気付けられました。

日本人云々という気負いが抜けた時

その後米国生活に慣れるに従い、ビジネス上での日本人云々という気負いが徐々になくなり、知らぬ間にベースボールの見方も日本人に注目する態度から、地元のチームを応援する熱心なベースボールファンというふうに変化してきました。その間イチローの大活躍、新庄のSFジャイアンツへの移籍など、いろいろな日本人選手の活躍もありましたが、今はひたすら地元ジャイアンツがワールドシリーズに出られることを夢見ています。先日もパックベルパークに日本からの知人を連れていった時に、間違って車でマスメディア用のゲイトに入ってしまい、ちょうど監督のダスティ・ベイカーが球場入りするところに遭遇しました。ダスティのファンである私は、思わず彼に声を掛けて気軽な立ち話を彼とする機会を得ました。あまりにも大胆で自然な私の態度に驚いた知人は、彼を個人的に知っているのか?と聞く始末で、特に個人的に知らないけど、彼はとってもフランクに答えてくれたよと返事をしたら、知人の目は点になっていました。

ベースボールの中に、アメリカの家族のあり方を見る

ベースボールは、他のプロスポーツと異なり家族で楽しむスポーツとして、アメリカ人のライフスタイルを代表しているような気がします。ボールパーク(球場)では、おじいちゃんやおばあちゃんが、孫や子供と一緒にグラブを片手にスコアボードをつけながらゲームを楽しんでいる光景を多く見かけます。またチームが深く地元のコミュニティとつながっているので、地元ファンへのサービスや優遇制度、チャリティ活動への貢献など、チームは地元と一体化するためのイベントをたくさん行っています。9月28日ジャイアンツがナショナルリーグのプレイオフ出場の資格を獲得した日、バットボーイとして働いていたダスティの息子は、まだ4歳ぐらいで、バットの長さと同じ位の身長でよろよろしながらバットをダックアウトに運んでいました。ダスティは、試合終了後その小さな息子を抱き上げて、お祝いのシャンペンがけのパーティルームへ入っていきました。こういう光景は、とても攻撃的なフットボールやバスケットボールの世界では考えられないものです。

私がベースボールを好きな理由はそこにあります。ホットドッグをほおばりながらベイの潮風に吹かれて、ファンとプレイヤーをさえぎるフェンスがほとんどないボールパークで地元チームを応援する。この良さは、アメリカ生活の醍醐味です。ダスティと自然に会話ができた理由は、ここにあるような気がします。

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